紅茶の歴史
現在、世界の茶の生産の8割は紅茶で占めているそうです。
1985年の茶の収穫量は2,333(千トン)、そして緑茶の生産量は424(千トン)程度です。
日本では中国から伝わってきた緑茶が普及しており、紅茶の消費量は緑茶に遠く及びません。お茶のふるさと中国も、やはり緑茶の消費が中心のようですね。
ところが、それ以外の地域、ヨーロッパやアメリカではお茶といえば紅茶で、特に茶の輸入数量では圧倒的な国イギリスは紅茶の本場として知られていますね。
では、お茶には一体どのような歴史があるのでしょうか?
お茶の起源は定かではありませんが、およそ二千年前に隣の大国、中国で飲まれ始めたといわれています。
その後、日本に天台宗の開祖、最澄がお茶の種子を持ち帰りました。はじめは万能の薬として珍重されたお茶でしたが、後には芸術の対象となっていき、戦国時代の安土・桃山文化の中心的存在になっていきます。
千利休によって大成された日本の茶の湯文化は当時の権力者、戦国大名などから畏敬の目で見られるまでになりました。天下人、豊臣秀吉はこれを利用して北野大茶会を開き権力の誇示しました。このようにして日本の茶の湯文化はその絶頂期を迎えることとなります。
当時、キリスト教の布教に日本を訪れていたヨーロッパの宣教師も、この茶の湯文化に好奇心と畏敬心を抱き、ヨーロッパに茶が伝えられる契機となったのだそうです。イギリスの紅茶文化の起源は日本の茶の湯文化にあるのかもしれませんね。
また当時、アジアまで進出していたオランダが中国からお茶を輸入しました。それがヨーロッパに初めてお茶が伝わったときだったのです。その後、イギリスがオランダに戦争で勝ち、イギリス東インド会社がお茶の貿易を独占していくようになり、完全発酵のお茶、つまり紅茶が生まれたのです。
紅茶はイギリス貴族の間で人気を博し、庶民の間にも浸透していきます。こうしてイギリス人の紅茶消費量は莫大なものになっていったのですね。
当時、イギリスは紅茶を中国から輸入していました。イギリスは財政を潤すために紅茶輸入時の関税を高くしたり、茶税法と称して当時、植民地のひとつであるアメリカに強制的に紅茶を押し付けたりしたため、ボストン茶会事件の後、アメリカ独立戦争が起きアメリカを手放すことになってしまいます。
依然としてイギリスはお茶の生産を中国に頼っていて、お茶の輸入の代わりに大量の銀を支払わなければならず苦しんでいました。
なんとかして中国からお茶の生産を奪おうとして中国の茶樹を植民地、インド・カルカッタに移植しましたが、それも失敗に終わってしまいました。
しかしその後、幸運にもインド・アッサムで野生の茶樹(アッサム種)を発見しインドでの紅茶の生産の道を開きます。しかし、依然として紅茶の生産を中国に頼っていて、銀の流失を防ぐことができなかったイギリスは強行手段に打って出ます。
植民地、インドで生産したアヘンを中国に押し付けて、その代金で銀の流失を食い止めようとするのです。これが契機となりアヘン戦争と発展し、イギリスが中国を破ります。
その後、イギリスはインドでの紅茶のプランテーション(大量生産)にも成功し、紅茶文化の象徴となっていったのだそうです。